それが世界なんじゃないの?
055:引き金を引くこと
「やぁ元気?」
屋敷を切り盛りする従者の目を盗んで来る訪問者にクローリーは嘆息しながら笑った。元気って何だい。僕の調子なんか気にしたことないだろう、君。
「挨拶だよ。人間はやるらしいから真似してみたんだ」
ご機嫌うかがいの軽いものだね。あんまり楽しくはないか。君の調子なんてどうでもいいし。
「だったら訊かなきゃいいじゃないか…」
「じゃあクローリー君が僕に言ってみるっていうのは?」
クローリーは明確に嘆息した。曙色の髪をリボンで結ったこの男が人に何かさせるときにはろくな理由がない。
「飽きたんだろう、君」
「わかる?」
コーヒーが飲みたいなぁ。人間に造詣が深いのはいいけど僕まで巻き込まないでくれないか。フェリドの無茶な要求は程度にかかわらず日常茶飯事だ。茶が飲みたいから始まり食事や睡眠、生活習慣といったありとあらゆることに及ぶ。そのフェリドのもとにつく身として何とかその無理に応えるべく奮闘するうちにいつの間にか道具がそろった。活動エネルギーに血液しか必要としない吸血鬼の住まいとは思えぬ品揃えだ。従者たちにも不評なのでフェリドの世話を焼かせるわけにいかずクローリーが相手をする。
クローリーは手慣れた仕草でコーヒーを淹れる。砂糖やミルクも用意した。一度だけどうせ味など判らぬだろうと手を抜いたらひどい目にあった。全裸で縛られて転がされた。吸血鬼の中での階級差はそのまま能力差へつながる。クローリーではどうあがいてもフェリドに勝てるわけもない。結局彼が機嫌を直し満足したと言うまで散々奉仕させられた。
「手順が違うねぇ。慣れてきた?」
くふふ、といやらしく笑うフェリドはすでに応接の長椅子へ優美に腰を下ろしている。フェリドは美貌の持ち主ではあるのだが言動や端々ににじんでくる淫靡さが消えない。損なうわけではないのになんだかいやらしい。クローリーがそういった要素と無縁である所為かそう思う。フェリドはクローリーが給仕したコーヒーを満足そうに飲んだ。不味いねぇ。じゃあ飲むなとは心中でのみつぶやいた。
「セックスしようか」
「人間の真似かい」
嘆息したクローリーにフェリドがすでにかぶさっている。応接の小卓へ乗り上げコーヒーの一式を蹴り飛ばす。蹴散らされるカップの破片やこぼれたコーヒーのしみにクローリーはうんざりした。従者たちにどう説明するべきか。染み抜きの方法を聞いたところで説明はまぬかれない。
「集中して」
紅い唇から覗く牙。自分にも同じものがあるのだと思うのに慄える。口元が裂けるように笑った。クローリー君は可愛いね。かわいい、って。唇を吸われた。触れるだけの口付け。とがった先端の舌先が潜り込んでくる。薄く開いていた歯列へ割り込みクローリーの口腔をむさぼる。舌を吸い上げられて絡められる。その柔い舌をフェリドがわざと噛んでくる。痛みと出血。びくりと手足が跳ねてしまう。半ば反射として動きを止めようとした手が宙をさまよった。拒むことは許されない。そしてできはしない。判っていても不要な反射は消えてはくれない。中途半端な位置で彷徨う手の行きどころなど知らぬげにフェリドはクローリーの襟や紐を弛める。フェリドの手がクローリーの髪を梳く。黒と赤に分かれたそれを混ぜるようにしてフェリドの手慰みが続く。一房だけうなじのあたりへ垂れる三つ編みが引っ張られる。ちょんぎっちゃおうか。やめてくれ。ようやく吐き出せたそれにフェリドは喉を震わせて笑った。
「じゃあクローリー君に何か言うこと聞いてもらおうかな」
「いつも同じじゃないか、それ…」
白い手袋に包まれた細い指。唇をなぞっては戯れに指先を押し付ける。
「口を開けて準備しなよ」
立ち上がっているフェリドの美貌は冷たく淫靡だ。クローリーは自らベルトを緩めた。
いつ始まったのかなんてもうわからない
いつ終わるのかなんてものもわからない
世界なんてそんなものだよ
綺麗な顔で笑われて額ずいて
靴を舐めるように
「ん…」
交渉後の体が軋む。長椅子の上から絨毯を敷き詰めた床へ移動している。だるさに呻くクローリーを見捨ててフェリドは長椅子の上で仮眠している。体が眠気をよこしたのか単に交渉の手順の一つとして眠りを取っているのかは判らない。散々もてあそばれたクローリーの体には至るところへ歯形が散っている。脱ぎ散らかされた着衣を拾い集める。内股をどろりと伝うものがある。吸血鬼でも交渉手順や効果は変わらないらしい。腹の中へ放たれた熱源をクローリーは何度も呑み、口からも注がれた。髪の紅い部分がぺきぺきと音を立てる。顔にかけられるものすら享受するしかない。
「…まぁ、いいんだけど」
何とか体裁をつくろうともう駄目だ。長椅子の背中へ体を預けてどさりと座り込む。人間と程度が違うだけで吸血鬼だって疲れたり痛かったりするんだけど。とがった耳がぴくぴくと震えてしまう。緩衝材と背板を隔てた先にいるフェリドの寝息をうかがう。フェリドがクローリーを抱く理由は不明だ。面白いから。その一言で人間を挽肉にしたり死ぬまで血を呑んだりする。かまわないけど。クローリーこそ吸血鬼になってその蔓延とした退屈に倦んでいた。面白いから来なよ。子供の遊びのように誘われてついていく。
「クローリー君がもうやだよって泣くところが見たいね」
ざくりと切りつけるそれにクローリーは今度こそ力を抜いた。
「いつもそうじゃないか」
「違うね。君は嫌だとは言っても泣いたりしないからなぁ。たまにはめちゃくちゃに意地悪してもうやだよって君をわんわん泣かせるつもりだったのになぁ」
「悪趣味だよ」
「そうでもないでしょ」
男くささしかないクローリーをそもそも抱こうとすること自体が珍しい。ましてやフェリドは元々綺麗なものだとか美しいものだとかそういったものばかり好むのだ。クローリーを交渉相手にする理由など頑丈だからの一言で片付いてしまう。
長椅子の背もたれへ行儀悪く頤を乗せているフェリドがフフフ、と笑う。フェリドの双眸は紅い。真朱のそれは透明度が高く玉に似ている。紅い眼差しが薄着のクローリーを舐めるように見た。振り払うようにして身じろぐのを止めない。
「判らないよ」
「そんなものだよ」
フェリドの顔が引っ込み、長椅子の軋みが聞こえる。いくらもたたないうちに寝息が聞こえてきた。
「そうかなぁ」
体を傾がせて休息をとるクローリーの眦からはらりと滴が滑る。悲しみや怒りというよりは体の高ぶりの残滓だった。感情の摩耗が激しい。何も感じないことに倦んでいた。ちょっとうらやましいよ。返事はなかった。クローリーも求めていなかった。
さぁ、始まりの引き金を引いて
終わりに向けての始まり
《了》